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2017.10.16 [ブログ] [特別養護老人ホームちくしの荘]

祖父母 安野さん(ケアワーカー)ver.

私の祖父母との思い出は、今から40年以上前から始まります。当時、父が自営業はしては失敗しとても4人の子供抱えてまともに生活出来る環境にありませんでした。いつも、食に餓えている状況下でした。1ヶ月に数回贈られて来るチョコレートや駄菓子の数々…餓えていた私達兄弟姉妹は深く考える事なく目の前のお菓子達に夢中でした。今みたいな量販店、格安の店などなかった時代の話しとなります。(笑)誰から贈られて来る品物など気にする事もありません。ただ「あんた達のおじいちゃん、おばあちゃん」と聞くだけ。写真は若かりしき祖父母の写真だけ。ある日、突然足長おじさんである祖父が訪ねてきました。「⚪⚪さん家はどこにある?」それってうちの家やん…「誰?このおじいちゃん…」当時55歳だった祖父の目の前にそう思いました。名古屋から訪ねてきました。当時子供である私達には血縁関係など分かるはずもありません。それから長い交流生活が始まります。祖父が定年退職を機に元々九州の地で家を探しているとの事など、話していました。その時の祖父には指が1本なく、後日炭鉱で働いていた時の勲章だと言っておりました。
その後祖父母は福岡に移り住んでいました。
福岡に祖父母が移り住んでからも、度々お世話になり両親共働きの親に代わって面倒見てくれていた。夏休みなどの子供達の長期休暇になると下の妹二人は預けられっぱなし。愚痴も言わずによく可愛がってもらっていました。今考えると、幼い子供達を預かるというのは相当エネルギー使いキツかったんじゃないかと想像します。
月日は流れ自分達の青春を謳歌していくと段々祖父母に会いに行く回数も減って行き、いつの間にか祖父母は自分達て生活するのが困難な状況下になって行き私の両親の希望て祖父母と暮らす家を建てるようになり、共同生活が始まりまり、祖父とは約8年程、祖母とは約12年程で別れが来てしまう事になりましたが、その間、まだ若い私はお年寄りの行動の全てを凄く嫌がっていました。祖父の方に認知症の症状が出始めて異臭や行動はその時の私には耐えがたいものとなって行きます。病気も併発しており祖父はそのまま病院に…洗濯物を取りに行ったりして時折顔みておりましたが、認知症状が急激に酷くなる祖父に話しかける事はできませんでした。私が30歳のだった頃中州の夜を楽しんでいる時自宅から電話があり祖父が今息を引き取ったと連絡が入りました。人生で初めて人の死後と言うのを体験しました。葬式、火葬が終わり骨になった祖父を見た時「肉体は滅びても祖父が生きてきた功績と人柄は私達が生きている限り残って行くんだなぁ」と感じました。じいちゃん死んだ後も色々と教えてくれてありがとう。
祖母はじいちゃんの死後段々と活気がなくなり、自宅で転倒大腿骨骨折病院に入退院を繰り返しよくあるパターンで認知症状が進行していき、多い時には週に2~3回は洗濯物を取りにやらおむつを持って訪ねていましたが段々誰が来ているのか分からない様子でした。声もほぼ聞く事はなかったのですがある日祖母のタンスに洗濯物を入れていると「私のお金使っていいからね…」と唐突に言い出しました。その頃の私は父親と自営業をしており行き詰まり借金も抱えており苦しい時でした。祖母は命のなかで感覚的なもので見抜いていたのではと思いました。この人はこんな状態になっても私達の事心配している、今も昔も心の中は変わっていないだと感じました。「ばあちゃん、ごめんなさい…」と心の中でしか言えませんでした。もう、二人共、現世にはいませんが「人は2回死ぬ、1回は肉体が滅びた時、もう1回はその人の事を語り継ぐ人が居なくなった時」と聞いた事があります。そういう意味では今も私達孫がいる限り祖父母は生きているだろなっと思います。